Jeremy Miura

凡人

好意を感じると怖くなる

 

 

自分を分析しててつくづく思うのはなんやかんや恋愛が自分にとって大きいということです。

この四年間、彼氏も彼女も作らず過ごしてきました。

そこに至った理由としては、自分が他人の愛情を受けるに値しない人間だと思い始めたことが原因です。ドラを好きになってそれを引きずっていたのが唯一の理由だと思ってましたが違うようです。

 

その後何度か誰かと「いい感じになる」ことはありましたが、向こうの好意が増えるに連れ、連絡を減らしたり会う頻度を少なくしたりしていたのはずっと私でした。

 

自分は愛情を与える側の人間と思い始めたのもそのへんからだと思います。経済力もなければ、結婚願望もないし、どれだけの関係になっても自分の道を進みたいと思ってたので誰かと関係をもつとその誰かを傷つける結果が見えていました。

 

けど最近、日本を出る間際になっていい関係の人ができました。二人で話して付き合わないことにしたけど恋人関係に近いです。というのも彼女は私のことを気に入ってくれてるけど、前回の恋愛で遠距離になって別れたと言っていて、自分自身のことを考えて行動できる人だと言うことと、このタイミングで付き合う大変さを知っている人だということがわかったからです。

 

その2つを知って、自分の中の壁が少し崩れました。

けど未だに恋愛においては自分に自信がありません。自分を思ってくれる人を傷つけるのが怖くて。

 

けど、今回の件を境に少しずついい方に向かっている気はします。

夢中になれない

 

 

高校3年生の夏まで野球漬けの日々でした。

私が受験勉強を始めたのはベンチ入りできないと確信したときから。

 

その頃から自分のアイデンティティをさらに強く求め始めました。というのもクラス(野球部だけ)の就職を選んだ人以外の9割は野球推薦で大学を選ぶ中、自分は大学で野球を続けるつもりはなかったからです。

 

それまで10年、野球以外のことはほとんどしていない状態でした。それが無くなることに対する恐怖心もありました。

 

そして浪人の時期を経て大学に入りビンゴッ!

野球部という肩書の外れた自分の無力さに落ち込みました。

そこからは自分の責任を親になすりつけ、完全に強制されてたわけではないのに「10年間野球以外のことをやっていれば」という考えに飲まれていました。

 

ただ、それを考えるだけで終わると何も生まれないことはわかっていたので、自分がしたことないことに挑戦するようになっていきました。

 

ただ、最初から結果を求めすぎるあまり何も上手くいかないような感覚に陥った私は「始めるのが遅すぎた」と考えるようになりました。

 

 

次第にその考えも変わっていったように思えましたが、自分を根元から帰ることはかなり難しいことです。今でも昔の考えが心の奥底に確かに存在しています。

 

 

 

ここでこの記事の本題ですが、「なにかに熱中することができない」というコンプレックスが存在してます。

 

なにか一つのことにのめり込むと他のことができない人間ということを理解しているからです。

 

これはあらゆる私の行動から見て取れます。

例えば多趣味で移り変わりが激しいところ、恋人を作ろうと思わないこと。

 

1つのこと、一人の人に集中しすぎて他のことが疎かになることを極端に恐れています。

 

もう6年近くしてる筋トレですら

「あ〜、筋トレは好きやけど別になかったら無かったでいいよ」って考えでやっています。恐怖心から。

 

こういったことから自分自身のことを臆病者だと考えてます。

ツイッターにはすでに書きましたが、周りの人は私が就活を辞めて海外に行くという選択をしたことを「勇気」という言葉で表現します。

 

どこまで本気で言っているのかは定かではありませんが、多くの人に言われているので本当にそう感じている人もいるのでしょう。

 

ただ、それは私にとってなんの慰めにもなりません。

色々なことから逃げていることは自分自身が一番よく分かっています。

 

 

ただ、この事実に気づいた、あるいは向き合い始めた瞬間から自分が変わり始めたと思います。

 

まだ勇気を持って"1つ"のことに集中できるような人間ではありませんが、少なくともそれに挑戦しようと考え始めたからです。

 

言い訳ばかり並べる生活にも疲れてきたので今がいいタイミングだと思います。マルチタスクは苦手なので1つずつ、どれも中途半端にして放って置かない人間になりたいなと思っています。

 

「何かを始めるのに遅すぎるということはない」

誰の言葉か知りませんが、完全に同意です。

あとは少しの勇気が必要かな。

お金の使い方

 

 

母親からは「あんたお金にしわいよな〜」ってよく言われます。それは半分正解で半分不正解です。

 

自分が価値を見出したものにはお金を使うし、その金額分の価値がないと考えたら全く使わなかったりします。

 

高いとか安いとかの問題じゃなくて、自分にとっての価値で決めてます。流石に高額なものは躊躇することもありますが。

 

 

それがもろに出てるのが「マスク」だと思ってます。

正直、最初期からコロナなんてどうでもいいって考えてたので決して高いものではないけどマスクにお金を使うのが嫌でした。

 

そして、今働いているところが不織布マスク以外では働けない環境です。密集もしないし会話もしないのに。マスク以外でも過剰な対策をしてるように感じます。

 

まあもう少ししか働かないので大人しく従ってますが、不織布マスクで力仕事してるとどうしてもしんどい。

もともと喘息持ちでマスクなしでも喘息じゃない人と比べると呼吸に問題があるし、なんせすぐ熱くなります。

 

作業の合間に暇な時間ができたときに検温器の前でボーッと立ってたら38度くらいまで体温が上がってました。発熱しやすく熱を溜め込みやすい体質です。

 

いろいろしんどくて仕方ないです。

そこで始めたのが不織布マスクの洗濯です。

 

一枚あたり大した額でもないけど、必要性のそこまで感じられないものに金を使いたくないので洗って使いまわしているのと、マスクとしての効果は薄れるけど呼吸のしやすさ暑さがマシになります。

 

推奨される行為ではないことはわかってますが(私的に)仕方ないです。

完璧主義

 

 

自分の感情への鈍感さについて書こうとしてたけど、今日は書けなさそうやったから別の話です。

 

完璧主義について。

私は元完璧主義者です。何かを始めるときに準備が足りてないと感じ始めるのを先延ばしにしたりしていました。

同時に準備が好きではない人間なので結局条件が整わずやりたいと思っていたことをせずに終わることが多かったです。

完璧主義な部分とそれと相性の悪い部分が組み合わさり、結局自分の中にもやもやを残すことが多かったです。

 

0か100か状態です。

物事の進行に関してはそんな感じでしたが、やりたいという気持ちだけは残るのでモヤモヤが残る、そんな感じでした。

 

例えば、英語を話すとき。

今は自分が話してて文法的におかしいとか特に気にはしません。話しながら(あ、これは通じてないかも)と感じることがありますがそのときは別の言葉で補います。

 

しかし、大学入ってすぐの頃、英語を使う機会が増えてきたときは誰かと話すときに頭の中で文法、単語をしっかり組み立ててからでないと話せない状態でした。間違いたくないという思いから。そのせいで話すことを諦めてしまい、結局0を取ってしまっていました。

 

0を取ると何も残りません。

1でも2でもいいです。この場合少しでも自分から言葉を発することが大切になってきます。

 

完璧主義が悪いことだとは思いませんが、それは自分の中の他の感情とマッチしたときにしか大きな結果につながらないですし、私には向いてません。

 

それに気づき始めてから自分の中の制限が外れたと思います。

自分の知らない世界に飛び込めるようになりました。

自分がやりたいと思ったことに即座に飛び込めるようになりました。

 

そこでようやく「ミスを恐れるな」という言葉の意味を理解した気がします。

 

ただ、その言葉を知っていても実行するには勇気が必要になってくると思います。「周りからどう思われるんやろ」って気持ちから恥ずかしさを感じたりするので。

そんなときはその道の人に頼ればいいと思います。

私が大学のときにトレーニング同好会みたいなものを作ったきっかけはそれです。

 

始めてみたいけど間違った(効率的でない)フォームでやって、周りの人に心の中でバカにされたらどうしようと思っている人たちが筋トレを始めやすいように、不安を少しでも減らせると考えていたので。

 

ここで1つ残念に思っていることは、

何かを始める人を馬鹿にする人がいる、という風に思わせている人がいるということです。

 

馬鹿にされるんじゃないかって感情は完全なる被害妄想ではないと思っています。少なくともそういう状況を見てしまっているからこそ、そのように感じるのかと。

 

どんなことにも共通して言えますが、初心者に優しい世界であってほしいです。

 

誰も最初から完璧にできないし、何かを続けていても完璧にできるなんて人はほとんどいてないので。

 

 

最後に

「本当にやりたいことであれば、全ての条件が整うまで待つ必要が無い」

 

これが私の考えです。

 

やりたいと思ったときが始める瞬間です🌱

それができるようになると他人に対する嫉妬や劣等感といった感情にも変化が起こると信じてます。

 

もし、私がやっていることの中に少しでも(やってみたいな)って感情を持つ人がいれば教えてください。

最後まで面倒は見れないかもしれませんがそれを望むのであれば入り口までは連れていけます。あとは自分の好きなようにどうぞ🎉役に立てることがあれば手伝います!

怒り

 

 

イライラすることと怒りってまた別のことで、前者はたまにありますが後者を感じることはあまりありません。少なくとも他人に対して。

 

ただ、最近少し自分の中の怒りを感じることが増えたので整理するためにも書いておきます。

 

元々なぜ人に対して怒りを感じないかと言うと、興味、関心の薄さです。まだまだ他人のことに目を向けるには早い段階で、自分のことばかり考えている気もします。多少マシにはなりましたが。

 

ただ、関心が薄いことであってもそれが重なり、自分や周りの人にとって害を及ぼすものとなると話が変わってきます。

 

最近感じた怒りは「他人の不幸を喜ぶ人の多さについて」です。

誰が悪いとか責め立てたくはないですし、他人の幸せを喜ぶって難しいことだと思うので「喜べ!」なんて偉そうに言うつもりもありません。

 

ですが、少なくとも人が幸せである状態を放っておくことはできるでしょう。と感じます。

 

幸せって相対的に考えるものなんですか?

誰かが幸せになれば自分は不幸せになる?

 

私は昔「誰かの幸せは誰かの不幸せの上に成り立っている」と考えていました。それはある意味正解で、ある意味不正解です。少なくとも当時の私の捉え方は間違いだと考えています。

 

 

例えを挙げると、

商売をしているAさんがいてるとします。

その人の横で同業のBさんもいてます。この場合客の奪い合いのような状態になる可能性があります。そして、どちらか一方に客が流れるともう片方は経営が厳しくなります。

 

この場合、お金の面で考えると栄えている方が「幸せ」で栄えていないほうが「不幸せ」です。そして片方の幸せはもう一方の不幸せの上に成り立っています。

 

もちろんお金が全てではありませんがあくまで例えとして。

 

 

このように「誰かの幸せが誰かの不幸せの上に成り立っている」事実は存在していると今も思いますが、それだけが幸・不幸のすべての形ではないと考えているのが今です。

 

自分の友達が幸せになると、自分が不幸になるわけではありません。比べてしまうとそう見えますが、自分の幸せは自分の中で決めるもので絶対的なものであり、相対的なものではないはずです。

 

同じ人を好きになってライバル同士とかなら話が変わりますが(こっちのほうがいい例えやった😂)

 

みんなそれぞれに違った幸せのカタチがあるのに、

決まった幸せのカタチを求めて、「誰かがその幸せを奪った」と感じている人が多いのではないかなと思っています。

 

だから幸せな人に対して素直に喜んだり、そのまま放置できずに足を引っ張るようなことをする人が多いのではないかと。

 

人が幸せになっても自分が不幸にならないのと同様に、

他人に不幸が訪れたとしても、自分が幸せになるわけではありません。

 

こんなことわかってる人は多いと思いますがどうしても他人を不幸にしたいって思っている人がいてます。

 

それに対しての怒りです。

その当事者たちに対しても少し怒りを感じますが、そのような感情にさせている社会にはもっと怒りを感じます。

 

何をどのように改善すればいいのか、自分に力があったとしてもどうしようもないことで、これからも変わらずに残り続けるでしょう。それが人間だと思いますが。

 

嫉妬するのもいいし個人の自由ですが、それを他人を不幸にするために使わないでほしいというのが私の願いです。

 

 

 

人間らしさは好きですがそれを強く感じすぎるとしんどくなるのかな。個人的にね。この間の性欲の話でもそうやけど。

自分の人間らしい部分を捨てたくなった理由はそこにあるかも。これについてはまだ書いたことないし、この記事を書くまで忘れていた事実です。

 

激しく嫉妬する自分が嫌で、自分の感情に鈍感になってしまったと思ってます。もしかしたらブログ書いているのも気持ちの整理と、それ以上に自分の鈍感になった感情を取り戻すためなのかも。

 

ちょっと面白そうな話題なのでゆっくり書きたいと思います🌴

 

ファッション

 

 

年に2回くらい服装にツッコミが入ります。

「ズボン細いやつしか持ってない?」「その服の色何色?」

みたいな。笑

 

大学時代はもっと酷くて「昨日もその服じゃなかった?」なんて聞かれてました😭さすがにそれはないです。笑

 

今もですが大学のときは同じ服を色違いで何着か買ったり、同じ色のシャツを一週間分持ってたり、ミニマリストではないけどミニマリストみたいな服装で通学してました。

 

多分黒い半袖シャツのイメージが強いと思います。

 

そんな感じだったので年間に服に使っていたお金が4〜5万円。

H&M最高!

 

ちなみにプロテインを含むサプリ代は年間に8万円以上。

そうなんです。そしてジム代が8万円ほど。

筋肉代に振り過ぎていました。

 

というのも、そもそもトレーニングを始めたきっかけの1つに「筋肉って最強の服じゃない?」ってのがあったので。

 

なんてことないシャツでも筋肉があればどうにかなると信じてました。それで自分のファッションセンスの悪さを打ち消そうと目論んでいました。が、絞れている期間じゃないとそれも通用せず、一年のうち3ヶ月程しか絞れてる、と言える期間がないので基本ずっとただ黒シャツを着ている人になっていました。

 

何度かファッションに興味を持ったこともあり、友達に聞いてみたり一緒に選びにいったりしましたが、全部高え!

いつもシャツ1枚700円とかで買ってる人間には3000円でも高く見えます。

 

結局2、3万円で服を選んでもそのワンセットができるだけで何日かに一回「オシャレな日」ができてそれ以外は「ダサい」みたいになるよなって思って次第に興味も失せていきました。

 

そして何よりも、街中や大学でみかける「オシャレと呼ばれる人」の来ている服が似合わないんです。

骨格的に、顔的に。笑

 

大腿四頭筋が幼少期から発達していたこともあり、太ももの太さ(強さ)には自身がありますが、そのせいでサイズを合わせられないんです。

 

ももに合わせるとふくらはぎ辺りがおかしくなるし、逆にすると入らないし。ダボッとしたパンツは好みじゃないし。

 

レーニングしている人たちがスウェットパンツを多用する理由はそこだと思ってます。

 

服にそこまで興味が持てないのでオシャレになりたい!なんていまさら思いませんが、どうせならおしゃれのほうがいいよね、とは思います。

なかなか実現しなさそうですが。オシャレ=暑いって認識が強いので。

 

これからも筋肉代に課金するんやろうな〜

 

もう常に上裸ハーフパンツで生活したいです。

服を選ぶのも面倒なので。

 

 

【追記】

服装ってユニフォームみたいな役割もあると思ってて、

〜系、とか言うじゃないですか。ストリート系みたいな。

 

それの何かに属したくない気持ちもあります。

自分に全く関係ない〜系風の服装で自分が来てマシに見えるものならありですが。

 

自分の中の許容範囲は、トレーニング系とレゲエ系ですかね。

一人の時間

 

 

 

大学生の頃、夏休み等の長期休暇で予定は何もない日に友達から遊びの誘いを受けても「その日は無理」って断ってました。

仕事の連勤がしんどいのとはまた少し違いますが、遊びでも2日連続になってくると少ししんどく感じます。なので一日誰かと遊んだら次の日は完全オフにすることが多いです。

 

一緒に遊ぶ人数にもよりますが。

誰かと二人で遊ぶならそこまで疲労感は強くないので次の日も誰かと遊んだりとかはあります。

 

人数が増えるとどうしてもいろんな方面に気を遣ってしまうので、あまり話さなくても体力を使ってしまっています。

 

 

集団行動はあまり得意ではないのでむしろ一人で自由にできる時間の方を好みます。

 

 

ということを昨日、久々のツーリングで海に行って考えてました。ただ、勘違いしてほしくないのは人が"嫌い"ってことではありません。独りでいると心がやられていくのはわかってます。笑

 

上手に自分の中のバランスを取る必要があります。

自然に囲まれることが1つの手段です。誰とも話さず、波の音を聞いたり潮の香りを感じたり、山の中をバイクで走って風を感じたり、途中見かけた動植物とコミュニケーションをはかったり。

 

私のイメージに過ぎませんが、自然好きな人って一人の時間を大事にできる人がおおい気がします。自分の思考にふけったり、あるいは純粋に自然を愛でるときに他の人の声がときに邪魔になります。ゆっくり自分のペースで他の人に配慮せずにゆったりできる空間だと思います。

 

そうやって一人の時間を作ることで他の人と一緒にいるときも元気でいられるのかな。

 

私にとって自然はテーマパークみたいなものです。

その世界に没入して一人で楽しめる場所。

 

自然好きな人とやったら一緒に行っても楽しめるね🌱