Jeremy Miura

凡人

怒り

 

 

イライラすることと怒りってまた別のことで、前者はたまにありますが後者を感じることはあまりありません。少なくとも他人に対して。

 

ただ、最近少し自分の中の怒りを感じることが増えたので整理するためにも書いておきます。

 

元々なぜ人に対して怒りを感じないかと言うと、興味、関心の薄さです。まだまだ他人のことに目を向けるには早い段階で、自分のことばかり考えている気もします。多少マシにはなりましたが。

 

ただ、関心が薄いことであってもそれが重なり、自分や周りの人にとって害を及ぼすものとなると話が変わってきます。

 

最近感じた怒りは「他人の不幸を喜ぶ人の多さについて」です。

誰が悪いとか責め立てたくはないですし、他人の幸せを喜ぶって難しいことだと思うので「喜べ!」なんて偉そうに言うつもりもありません。

 

ですが、少なくとも人が幸せである状態を放っておくことはできるでしょう。と感じます。

 

幸せって相対的に考えるものなんですか?

誰かが幸せになれば自分は不幸せになる?

 

私は昔「誰かの幸せは誰かの不幸せの上に成り立っている」と考えていました。それはある意味正解で、ある意味不正解です。少なくとも当時の私の捉え方は間違いだと考えています。

 

 

例えを挙げると、

商売をしているAさんがいてるとします。

その人の横で同業のBさんもいてます。この場合客の奪い合いのような状態になる可能性があります。そして、どちらか一方に客が流れるともう片方は経営が厳しくなります。

 

この場合、お金の面で考えると栄えている方が「幸せ」で栄えていないほうが「不幸せ」です。そして片方の幸せはもう一方の不幸せの上に成り立っています。

 

もちろんお金が全てではありませんがあくまで例えとして。

 

 

このように「誰かの幸せが誰かの不幸せの上に成り立っている」事実は存在していると今も思いますが、それだけが幸・不幸のすべての形ではないと考えているのが今です。

 

自分の友達が幸せになると、自分が不幸になるわけではありません。比べてしまうとそう見えますが、自分の幸せは自分の中で決めるもので絶対的なものであり、相対的なものではないはずです。

 

同じ人を好きになってライバル同士とかなら話が変わりますが(こっちのほうがいい例えやった😂)

 

みんなそれぞれに違った幸せのカタチがあるのに、

決まった幸せのカタチを求めて、「誰かがその幸せを奪った」と感じている人が多いのではないかなと思っています。

 

だから幸せな人に対して素直に喜んだり、そのまま放置できずに足を引っ張るようなことをする人が多いのではないかと。

 

人が幸せになっても自分が不幸にならないのと同様に、

他人に不幸が訪れたとしても、自分が幸せになるわけではありません。

 

こんなことわかってる人は多いと思いますがどうしても他人を不幸にしたいって思っている人がいてます。

 

それに対しての怒りです。

その当事者たちに対しても少し怒りを感じますが、そのような感情にさせている社会にはもっと怒りを感じます。

 

何をどのように改善すればいいのか、自分に力があったとしてもどうしようもないことで、これからも変わらずに残り続けるでしょう。それが人間だと思いますが。

 

嫉妬するのもいいし個人の自由ですが、それを他人を不幸にするために使わないでほしいというのが私の願いです。

 

 

 

人間らしさは好きですがそれを強く感じすぎるとしんどくなるのかな。個人的にね。この間の性欲の話でもそうやけど。

自分の人間らしい部分を捨てたくなった理由はそこにあるかも。これについてはまだ書いたことないし、この記事を書くまで忘れていた事実です。

 

激しく嫉妬する自分が嫌で、自分の感情に鈍感になってしまったと思ってます。もしかしたらブログ書いているのも気持ちの整理と、それ以上に自分の鈍感になった感情を取り戻すためなのかも。

 

ちょっと面白そうな話題なのでゆっくり書きたいと思います🌴